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人生における、一つの大きな出会いがあった。

 

これから先も心支えてくれるであろう、1冊の本との出会い。

 

『奇跡の人』(著:原田マハ)を読んだ。

 

少し前にはるちゃんの読書記を拝読して、これは読みたい、、、と強く思った。

メルカリですぐ様購入してはいたものの、配送段階でいろいろとトラブルが生じ、

つい最近ようやく手にすることができた。

 

心が震えた。

そんな瞬間が何度も何度も訪れる読書体験だった。

 

大きな感情の波に襲われ、揺さぶられた。何回も、何回も。

 

私は目も見えるし、言葉も自由に話す事ができる。

日常生活を送るにあたっては聞くことも基本的には支障はない。

 

わざとこんな書き方をしたけれど、私の耳はごく普通の健康な耳とは少し違う。

今年はなんでも書くぞ、表にすることを恐れないぞという意気込みだから書こうと思うけれど。

 

中学3年生の頃と高校1年生の頃、突発性難聴の診断を下される形で

聞こえ方に不便や不快感を感じる事があった。

そしてつい2年前にはその聴こえづらさに目眩も伴ってメニエール病の疑いと診断をされ、結局ストレスの元になっているものを生活の中から取り除いたおかげで、一番悪かった状況からは抜け出す事ができた。

それでも時々、調子が悪い時には特定の範囲の音域の音が聞こえづらいことや

自分が発する声が異様な響き方をして、一切声を発したくない、そんな気持ちに襲われる事があった。

こういう時に手話ができれば、そして相手もそれを読み取ってくれれば。

 

調子が悪い時に脳みその中で巻き起こるあの嫌な反響のしかた。

耳をもぎって、頭ももぎって、なんの音もしない場所に行きたくなる。音というものそもそもが存在しない世界に。

 

それに加えて、小さい頃からの聴覚過敏。

幼稚園の運動会は、ピストルの音が嫌で嫌で仕方がなくて、終始泣いていた。

鉄橋の上に電車が通る音も

救急車のサイレンの音も

実家で家族の声が聞こえながらテレビの音が流れてくる二重の音も

苦痛に聞こえる音が本当にたくさんある。

 

からしたら、ただのわがままかもしれないけれど。

 

でも自分にとってはとても耐えかねるものだった。

なんだかんだ我慢して生きてきたけれど、25歳になった今やっと

母親も、幼稚園の時の私の運動会での苦痛に気がついてくれたみたい。

 

最近は一人で暮らすようになって、余分な音は本当にシャットダウンができるようになったせいか、音に対する敏感さがさらに高まっている。

 

それもあってか、ここ最近感染症流行対策のために窓が開放されていて

電車の中でのがたがた音が本当に苦しい。

 

他の人もきっと「うるさいなあ」とは思っているんだろうけれど、

こちらはもう、叫びたくて泣きたくて耳を塞ぎたくて、もぎとりたくて

毎日のたった15分ずつの電車の時間が苦しい。

 

聞こえて苦しくなる耳と

聞こえにくくて苦しくなる耳。

そんな耳とずっと一緒に暮らしている。

 

状況が違うから、もちろんヘレンケラーや「れん」の気持ちがわかるなんて言ったらたいそう失礼な言い方になるだろうけれど、

それでも、自分の感覚が思い通りに働いてくれない苦しさは、本当に心が締め付けられる。

一番はその気持ちを人に理解してもらえないこと。

 

「安」が現れるまで、そして出会い直後の「れん」の描写は

読んでいて、胸が強く締め付けられて心が痛くなるものだった。

でも、そうだよね、見えなくて聞こえなくて、伝えることもできなかったら・・・。

 

こうやって、自分自身では「人に分かってもらえなくて辛い」なんて簡単に考えていたけれど

自分の想像のできない領域で踠き苦しんでいる人がいる。まずはそんなことを思い知らされた。

小さい頃からヘレンケラーの伝記が好きで、ついついかの有名な井戸のところばかり印象に残っていたけれど、ほとんどはそんなきれいな記憶とは程遠いものだったんだろうな。過酷で、辛辣で、泥臭いもの。きっとこんなにきれいに漢字に収まるようなものでさえなかったんだと思う。

(小1?のときに家に来てくれていた英語の先生主催のクリスマス会で、ヘレンケラーのお話を読んだなぁ。人生で初めてした暗唱がヘレンケラーとサリバン先生のものだった)

 

 

それから「安」の「神様は、それとは違う能力を私にお与えくださった」という言葉。

自分の持っているこういう力を素直にもっと信じて、もっと高めていく事ができればいいなと思った。

聴力がいいわけじゃないのに、音には敏感に反応してしまうから、人が小声で話していることも簡単に耳に入ってくる。それからなんとなく、人が何を考えているかを読み取ることもできる。それも全部、自分の特異的なところ、ある意味生きづらさを募らせてくる部分から来ているものだと思うんだけれど、

それができるおかげで、サービスの仕事に生きる事が実際、本当にたくさんある。

もしも、過敏な聴覚を神様が与えてくれていなければ、無神経に気づけていなかった事がたくさんあったはず。

 

余計な細かいことに気がついてしまうせいで苦しいこともいっぱいあったけれど、

今はなんとなく、それが活かせる仕事を選んで、発揮する事ができているのかなと思う。

一昔前の自分はこうやって、自分を認めてあげる事ができなかったけれど、今はそれができるようになった。

 

こう思う事が間違いではないんだろうなと再確認させてもらえる事、これも一つのこの本が与えてくれたギフトだった。

 

 

 

障害を超えるのでなくどう付き合うかという事。

傷ついてでも生徒に寄り添う事。

世界は美しいものに溢れている事。

無条件の愛を与えてくれる事。

 

忘れないように書きたいことを羅列。

 

少しずつ書き加えていきたいなと考えている。

 

 

どう付き合うか、もうこれしかないんだよな。

 

去年の4月、すごく苦しい思いをした。

当時からしたら約一年前に発症して、数ヶ月ずっと落ち着いていた症状が

4月になってひさしぶりに、仕事中に立っていられないほどの目眩に襲われて、医務室で目を覚ました。

 

あぁ治らないんだ。

悔しくてたまらなくて、とにかく泣いた記憶がある。

せっかく、元気に働けるようになったと思い込んでいたときだったから。

 

ずっと前のお仕事な環境が原因でこうなったから、その仕事から離れれば大丈夫と思っていた分、新しい仕事についてからも、まだまだ体の調子を整えることができない自分がいることが、本当に悔しかった。

 

その前からも、なんとなくわかっていたけれど、

とにかく弱っちいすぐに車酔いや気圧に影響を受ける三半規管も、結構な頻度で襲ってくる頭痛も、時々出る熱も喉の痛みも、そして耳鳴りや目眩や聞こえにくさ、あらゆる耳の不調も、もう自分のものなんだ。しっかりと受け入れることにした。

 

周りの人にかけてしまう迷惑は本当に大きいものだから、本調子が出せず仕事で人に迷惑をかけてしまうことは、ただただ萎える。辛いとか、苦しいとか、そういう言葉は置いておいて、とりあえず、萎える。

それでもここまできたら、理解してもらうこと、きちっと伝えることも自分の責任なのだ。

そして、辛い時に自分自身がどうやってその状況を受け入れるか、これがもう、私がうまく生きていくためにやらなくてはならない必須のことなのだ。

 

見えないこと、

聞こえないこと、

話せないこと、

この条件のもとでできることをしっかり自分のものしたヘレンやれん。

それを導いたサリバン先生や安。

 

自分にとって安のような存在は現実にはいない。でもこれからもし、自分の身体の状況に打ち負かされそうになっても、この本を読んで、本の中にいる安に励ましてもらう。そんなふうにこれから先私の中でこの本はずっと生きていくだろうな、そう思った作品だった。

 

 

 

若草物語観に行ったり、

せやがろいおじさん含めて伊藤詩織さんのことを改めて考えたり、

マルハニチロのCMを見て考えたり、

女として人生を与えられたこと、

このトピックを三日間くらい時間もらって書きたいこと、考えたいことが山積みになっている。

 

考えてすぎて辛くなるというすごく無駄なことをしているけれど。

25歳、育ててもらった家族からもおおよそ自立し、新しい家族も築いていない、独身の今だから。何をどう感じる自分がいるのか、きちっと整理したい。