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ここのところ毎回火曜日に日記を残していたけれど、
久しぶりに日曜日の夜にホッとする時間を見つけて
そして逆に火曜日はなんだかばたばたしそうだから、
初心に戻って日曜日の日記にしよう。
(始めた当初2018年頭は日曜に日記を書いていた)
まず、記録していたQuarantineの日付だけれど、書き残すのをやめた。
当初5月6日までの予定で、それで収まるわけがないとわかっていたが
案の定少なくとも5月31日までに延ばされたようだ。
今のようにふわっとした対策で期間を延ばしても果たしてきちんとした意味はあるのかという疑問は残るけれど。
これ以上日付を書き残してしまうとその数の大きさになんだか萎えてしまいそうな気がする。
ただそれだけの理由で日付を書き残すのは前回の日記までにしておこう。
今週は、出来事が起きたすぐあとにノートに殴り書きをしたことがあった。
まずその出来事を整理するところから今週の日記は始めよう。
とても悲しいけれど、ひとつの命が目の前で奪われてゆくのを見た。その瞬間を。
小さな横断歩道の手前で、茶トラのねこが車に轢かれてしまった。
(苦手だったら読まないで・・・)
散歩中、ねこが人の家の敷地に入っていくところ横目にして
「あら、かわいい後ろ姿~♪」と思っていた。
でもおくのほうにいっちゃったな~と思って、猫の行方を追いかけるのをやめてまた歩き出した。
すこしたったそのとき。後ろのほうから、ドスっという鈍い音と、
女性の「キャー」という声。
思わず振り返ると、さっき横目にした猫が道路の上に倒れていた。
一番近くにいた人間はおそらく私で
ただ立ち尽くしてしまい
轢いた車がそのまま逃げていくのを見て
もう一台後を追う車が猫の上をさーっと通っていくのを見た。
立ち尽くしていたその数十秒の間にお散歩中のおじいさん2人が近くに来てくれて
ひとまず動けなくなってしまったその猫を路肩に寄せてくれた。
猫は足を打ち付けて、頭も打ちつけて、目の横からは大量の血を流していた。
だんだんと全身が震えだして、痙攣を起こし、最後には動かなくなってしまった。
目をかっぴらいたまま。
死の瞬間を目の当たりにした。
物凄くショッキングな出来事だった。
幸い事故現場の目の前の焦点のおじさんや近くの飲食店のお兄さんが出てきてくれたり、通りがかりのお兄さんが市の担当に電話をかけてくれたり、独りで何かを追わなければならない状況からは免れていた。
ただ、さっきまで当たり前にそこにあった命が
一瞬にして消えてしまったこと、この事実にただただ動揺を隠すことができなかった。
一瞬写真を撮ろっかなと思ったあの猫ちゃんの後ろ姿、
ずっとあるものだと思う隙さえも与えずに
ほんの数分内で命がなくなった。
悲しい、出来事。
そして、おじさんやお兄さんたちとねこちゃんのご遺体を片付けている間、いろんなことを考えさせられた。
まずは、命はあまりにあっけないものだということ。
これは理解することができた。
この後、理解することのできないものが頭の中からどんどんとあふれ出た。
なぜ、ねこのひき逃げは許される?
なぜ、ねこの亡くなった身体は「死骸」と呼ばれる?
なぜ、ねこの亡くなった身体の「処理」は市の「清掃」が担当する?
当たり前のように、悪意はなかったかもしれないけれど、通り過ぎて言った車。
人を引いても同じことをした?
市の方とお兄さんがやり取りしている間、違和感を覚える言葉が多く出てきた。
ねこを置くために段ボールを用意したのだけれど、そこに「死骸」と記載してくれとのこと。
人が死んだらそれを「死骸」と呼ぶ?
そして、その「死骸」は、弔われることなく、ほかのごみと一緒にただ「焼却」されるのだ。
ねこは、ひとの命より軽く見られている。
一連のやり取りでただただそれを見せつけられた。
つらかった。
猫はそんな扱い方でいいの?ただただそんな感情だけが沸き上がった。
そこに居合わせた人たちは優しさにあふれた人たちで、ありがたかった。
しかし社会が作り出してしまった、人間のエゴにより作り出された尺度、どの動物の命が重んじられるかという勝手な尺度。これはどうにも受け入れがたいものだ。
ここで改めて考えた。
皆でシェアしている地球なのだから、皆平等に扱われるべきだ。
むしろ、勝手に土地を開発して自然を壊すようなことをしている我々はその分より謙虚である必要がある。改めて、そう強く思った。
動物のお肉を口にすることも、卵やお乳をいただくことも、当たり前のように決してしてはいけない。直ぐにすべてを断つことは正直難しい(これもひどいエゴ。常に葛藤している)。それでも少なくともせめて、自分がこういう行為をするために
幾つの動物がどのような過程を経てどのような感情を味わって犠牲を払っているのか。それは知らなければいけない。
できれば動物を傷つけることは回避したい。それでもどうしてもできないことには、心の底からの感謝をして自分のしていることに対する自覚もしっかりと持ちたい。それがせめてものできること。
いつかから肉を食べるのをやめ、革製品を購入することをやめ、環境にもできるだけの配慮をするようになった。
一般的な考え方からすると、こういうことをするのって、ちょっとスピリチュアルすぎて、とか、宗教染みているとか、簡単に受け入れてもらえるものではないかもしれない。でも少なくとも自分は知っている。これを堂々と誇りに思って、何にも問題としてとらえていない人に少しでも、伝えること、知ってもらえるおkとができたらうれしいなと思う。
選ぶこと、買うこと、これは投票しているのと同じ。
自分の行動が小さいように見えても、皆が行動を起こせば、声となって届くはず。
コロナの影響で和牛が売れないだのなんだの言っているけれど
その牛たちが「売れる」のが当たり前だったその時期はいかなるものなのか。
当たり前のように動物たちが殺されていくこと(もちろんコロナ禍の今もだけれど。)をただただ見過ごすのはあまりに心苦しすぎる。
どうにかして、少しでもみんなが認識・自覚を持ってくれる世の中になればうれしい。
ねこのいのちひとつ、目の前で失われたことで気づかされた、
日々夥しい数のいのちが失われている、人間のエゴのために。
ねこがきちんと天国に行けるように、
無駄になくなる動物の命が少しでも減るように、
この2つを祈るばかりだ。
そんな考えさせる、ショッキングな出来事があった一週間。
今週は体調が万全ではなかったので無理はしないと決めて
ジョギングはお休みにした。
何とか毎日のヨガは続けることができて、体の重さを感じながら楽しむことがでっきた。
こうして無理してできないことをしない、ということができるようになったのは自分の中では大きな成長だ。
壊れてから「また動けなくなったううT.T」となる前に
うん、今無理したら壊れるな、ここのポイントがしっかり理解できるようになった気がする。
言い換えればただの甘えだけれど。
でも今週そうやってジョギングを軽い散歩に切り替えたことで今まで見えなかったものが見えたり、そんなこともあった。
ジョギングは1ルートでしかしないけれど、散歩ではここ15年通っていなかった道を歩いた。お花の手入れをしっかりとしている家々が並んでいる通り。新緑があまりにもきらきらとしていて、その葉の隙間から眩しく太陽が差し込んでいる。
黄色や紫の菖蒲、鮮やかなミカンのなった見ているだけでジューシーな木。5月の力強さをあきれるほどに感じさせてくれるような昼下がりを過ごすこともできて、とても気持ちがよかった。
季節が変わった。
コロナを意識し始めたあのころはまだ寒くて
気づけば桜のつぼみがほころび始め
それが満開になり涙が出そうになるほどに咲き誇って
きづけばその子たちもきれいに散っていった。
葉桜から新緑への衣替えは本当に一瞬で、今はすっかり桜の花は跡形もない。
そう、時間は進んでいる。
その季節に合わせたお出かけができなかった分、時間についていくことができていない気がする。
でもそんなことでうだうだ言っても仕方がない。それが今年のさだめだ。
この中でできることをする。やりたいことをする。ただ、それだけだ。
ひと月後
もう少しだけでいいから
明るい世界が見えていますように。